2013年の本――2013年12月20日の日記
2013年の本。
今年は全然読めなかったのだが。
春にスランプに陥った時に置いていた『ヴァインランド』と『密林の語り部』読んだ。
『ヴァインランド』が素晴らしかったのは当然ながら、『密林の語り部』は読んでいる間は微妙、だけど読み終えてからじわじわくる小説だった。
南アメリカ・密林のマチゲンガ族になってしまったサウルの語りと、書き手の文章が何重にも折れ重なって物語になっている。
語り部は内容を少しずつ少しずつ変え語りながら。密林を歩き、彷徨い、散らばったマチゲンガ族を繋いでいる。
サウルといえば民俗学をやってたのだが、幾つもの異なった少数文化が自分の国にあるというのは、日本とは全然違うと感じた。
秋は大島弓子先生を読み漁り。「庭は緑 川はブルー」「8月に生まれる子供」「ダイエット」「夏の夜の獏」とか好きで何度も読んだ。泣いた。
でも、一番読んでるのは「バナナブレッドのプディング」かもしれない。最初に買ったというのもあるが、よくわからないものの繰り返し読むうちになんか分かってくる、やはり特別な作品だからだと思う。
『女の一生』も読んだ。フランス文学は苦手意識があったのだが、ノルマンディー地方の描写はすごい。
海辺の田舎町の漁民や牧師。海水が乾いてざらざらした潮を吹いているような。
それに対し城に籠り永遠と思える退屈な時を過ごすジャンヌ。
これの主人公は近代の貴族の女だけではないし、女だけでもなし、近代だけでもなし。
一見特殊に見える枠を使い普遍的なものを書くというのはなかなか。
『不滅』はそれまでのクンデラらしくないフランス舞台の小説、苦戦した。レベル高かった、ロマンチックじゃなかった。
もう少しあるけれど割愛。
本当に全然読んでない、読みたい本ばかり増えた一年であった。
2013年の冒険――2013年12月19日の日記
2013年の冒険。
『コクリコ坂から』はお正月にやってて初めて見たのかな。大好きで何度も見た。特に朝ごはんのシーンとメルがお母さんとお話して涙するシーン。
冬〜初夏は概ね山の家で過ごしたのだが、山の冬もなかなか楽しかった。
炬燵に入って二人で夜更かししたことや、お餅の匂い。その炬燵のテーブルの上で、数Ⅱの問題集をひたすら消化した。もりもりやった。
すぐ日が沈む冬の日の夕餉は異常に早かった。
さらさら雪が積もった。
春の夕方はいつまでもいつまでも日が沈まず綺麗だった。散歩してぐるっと回ってタンポポの綿毛を吹く。みんな仕事からなかなか帰ってこなくて、この時期はたっぷり働くのだ。
陽の射す縁側は暖かく眩しかった。
今年の梅雨明けは早かった。
おばあちゃんが茹でて冷やしておいてくれたそうめんの美味しかったこと。
クラムボンのチケットを衝動買いして、夏の夜、3peaceを聴いたっけ。(結局行かなかった)楽器の音が酒蔵の中で鳴ってる不思議なアルバム。楽器たちは堂々としてる。酒樽のように。暑くて木枠の窓を開けると、虫が大量に入ってきた。
8月、津に行ったら暑くて死に物狂いで帰ってきた。海が見たかった。山を越える鈍行電車は酔うし。赤福餅は無いし。
夏休みは友達と新大宮のくるみの木で晩ごはんを食べた。
爽が美味しいことを発見する。
更にアモバンという薬は寝る前にアイスクリームを食べないと死ぬ怖ろしい薬だった。
ある日、突然。
その人と秋晴れの日を過ごすイメージが脳裏に焼き付いてた…。夢を見ていたように。もし、その人が独身だったら、今でも好きだったかな。
明け方まで姉の部屋で勉強、薬飲んでシャワー、朝日で眠れない毎日だった。記述模試の現代文がショックすぎて一週間泣き通し。塾の宿題も泣きながらやった…。
ヘビロテしてたスピッツのCrispy!で温かい海に思いを馳せた。
鬱になり押し入れで寝たり起きたり。(少し埃っぽいけど楽しい)
自分の道がわかんなくなっちゃって、今もそうだが。
理想の生活をしてても、何かが足りないというか、不安があり、一体何が足りないのかわかんなかった。
自分の理想は結局上辺の物に過ぎず、本心ではない。これは自分の感情にも言えると思う。
病気になりたい私と病気になりたくない私は、なりたい私がちらちらしてるけれども。本当はなりたくない私なのだという。
一体本当の理想とはなんだろう、とは思う一方で、「勉強したことは後悔しない」という言葉に確かにと思う。
点数化するようなもので無くても良いから、学びつづけよということを決定した。
『家郷の訓』――2013年11月27日の日記
『家郷の訓』宮本常一・著(岩波文庫)
宮本先生のお家は石垣を隔てた海の真ん前にあった。
潮が引けば海は干潟になり、貝を採る。
きれいな貝殻はおはじきにする。
嵐の夜は土間まで浸水する。
宮本先生は長男だったから、お母さんは特別大切に育てた。他の人は麦ご飯でも、彼だけには白いご飯をよそった。
男は出稼ぎの多い土地で、彼らは正月や盆に帰ってくる。そして法事や親戚の挨拶、村の会合などをこなす。
子を他郷に出した母は「潮ばらい」をする。
「自らの額に潮水を三度指先でつけ、四方を潮で祓うのである。そして手に砂・礫などを持って神前に至り、この砂礫を投げてていちょうに拝む」
これを何回も繰り返す。それから朝飯を炊く。
「陰膳」とは家族が不在でも、ひもじい思いをしないようにその人にもご飯をつけておくこと。
『コクリコ坂』で出張中のお母さんにメルが朝ごはんをよそっていたのが印象的だったが、あれは陰膳と言うのだ。
私の家ではその習慣は無かったが、もらったものは必ず仏壇にお供えしたし、ご飯もお供えするまで食べてはいけなかった。
「千本幟」は竹を割ってそれに紙を貼り付けたもので、神社の本殿の周りに立てた。「潮をかく」とゆう潮ばらいに似たものを千度するのも子供の頃やらされたそうだ。
瀬戸内海の島々では流れ着いた海藻を乾かして肥料にする。
「渚では白い波が浜に寄せて沫をあげており、風が女たちの着物の裾を吹きまくるようにしている中で、渚に長くまるめてうちあげられているしっとりと濡れたモバを抱きかかえては、波の寄ってこないところへひろげます。手も足も着物も濡れてボトボトになるのですが、人々は黙々として朝のひとときを働き続けるのです。」
故郷でフィールドワークを始めた頃気狂いと言われたという宮本先生、この作品はその賜物であるのだろう。
ラムネ屋や桶屋、ランプ屋や彫刻師、駄菓子屋などがあった時代。
島嶼民でありながら、漁民ではなかった彼らの生活は、盆地に暮らした人々とどこまで同じでどこから違ったのだろうか。
2013年11月20日の日記
炬燵に入り、数学を解きながら、北の窓を見る。
今日は、雨だったけれど次第に晴れて、光の当たった雲がゆっくり東に移動するのを見ていた。
まどろんでいたら、いつの間にか一面透きとおったブルーになり。
そして真っ暗になった。
バリバリ勉強しています、とは言えないけれど、調子のよい状態はまだ続いている。
日が暮れるにつれ私の身体は火照り、活発になり、しかし足は汗ばんで冷えている。
夕餉はお好み焼き、あさりの味噌汁、ごはん。
スプーン一杯の梅酒をたっぷりのお湯で割ってごくごく飲み干し、今日も寝る。